今回はクレームの話でもモンスターな親の話でもない。

大人になれない保護者の話である。

ある学校でのこと。

保護者数名が校長室に入って話し込んでいる。教頭も中で話を聞いている。

しばらくして教頭が、憤懣やる方なしといった表情で出てきて、ブツブツと言っている。「まったく!そんなこと校長先生が『いいです』って言えるわけがないわ。いいと言えないことを「いいですか」と聞く方がおかしいのよ。」

聞けば、運動会の出席について、野球チームの保護者が学校長に「許可」を得に来たのだそうである。地域のクラブに所属している児童が六年生に7名、五年生に5名おり、校長室に来ていたのはその保護者の代表数人と監督だった。

聞けば「運動会の日程と野球大会の試合が重なった。全国大会につながる大事な予選でトーナメント方式なので、この試合に負けるとその後がない。6年生は最後。今年はチームも強くチャンスの年。」という。

「ついては運動会を休んでもよいか。」と学校長に許可を得に来校したのだ。

これと似た相談は、現職中に何度もあった。

要するに学校教育活動(公教育)と個人の教育活動(私教育)のどちらを優先するかという話である。

私の結論は「自分で決めろ」だ。

冒頭のエピソードに戻る。

五年生と六年生は合計57名で、そのうち、野球の子12名が欠席となれば、当日は表現種目、組体操、リレー、競技種目、多くの種目を12名抜きで実施しなければならなくなる。また、運動会の運営にも障りがでる。放送の係や用具の出し入れなど、運営の様々なことを児童活動としている学校は多く、高学年にとっては結構忙しいことである。休んだ子の仕事は他の子たちが補うことになるのだ。

運動会当日だけの問題ではない。運動会に向けた練習の授業で野球の子たちをどうすれば良いだろうか。リレーの練習はどうするか。集団演技の練習はどうするか。「あなたたちは運動会に出ないのだから、練習もしなくていいです。見学していていいですよ。」とは、心情的にとても言えない。他に挙げればきりがない。綱引き、競技種目、係活動・・・・・・・野球の子たち抜きの配慮と練習中の配慮をしなければならない。

またその学校では、運動会前に掲示物の作成があった。個々が「運動会の目標」を書き、それを全校で集めて赤白の入場門の飾りにし盛り上げていた。これも「あなたたちは野球の試合で出ないのだから、運動会の目標は書けないね。」というわけにはいかず担任としても悩ましいところであるし、当の本人も困るのではないだろうか。

さらには、運動会後に、国語の「作文指導」で運動会を共通テーマに書かせ、作文の書き方指導をする先生もいるだろう。また、学級対抗リレーを学級づくりの一場面に生かしていく先生だっているだろう。

以上、運動会を休むと言うこと1つとっても、様々に障りがあることは、(保護者だけでなく児童自身だって)自明のなのである。

だから野球の保護者は「様々にご迷惑をかけるので勝手に休むわけにはいかない。よってあらかじめ校長先生に許可をもらいに来た。」ということなのだろう。なるほど、お気持ちは理解できる。勝手に休むのではなく、保護者としても学校長の許可を得ておこうというわけだ。

しかしこれは、筋が通っているようでどこか「うーん」を唸ってしまう話でもある。

そんなことを聞かれても学校長が「だめですよ」とは答えられないのだ。なぜなら子どもの教育の第一義的責任者は保護者が負っているからだ。その保護者が自分の子どもに対して責任を持って行っている教育に「だめです。運動会の欠席は認めまでん」と言えるはずがないのだ。

だからといって「運動会?休んでいいですよ」とも言えない。なぜなら学校長は学校教育活動の主宰者であり、公教育の責任者として運動会の目的や教育効果を十分に考えて行っているからだ。運動会には(家庭教育では得られない)学校教育だからこそ身につけられる学びの要素があるのだ。

 また、仮に学校長が「個人の教育活動(私教育=野球)を優先にしてもらっていいですよ」と、一人にそれを「許可」してしまえば収拾がつかなくなるだろう。「だったらうちの子も年に一度の野外キャンプに参加させたかった」「うちの子だってピアノコンクールを我慢して運動会に出ている」「父親がどうしてもその日しか休めないから家族旅行のチャンスだったのに。」「なぜ学校長は野球部の子たちに休んで良いと『許可』を出したのか。であれば私も申し出ればよかった。申し出て「欠席可」にするのであれば、運動会はあらかじめ参加の可否をとるのが筋だ」と言い出す家庭まで出るだろう。

学校=学校長は、このようなことを想定しているので、野球の皆さんに「運動会は休んでいいですよ」と言えるはずがない。それが冒頭の教頭のぼやきである。

「運動会を休んで良いですか」と許可を求められても困るのである。

「運動会に出るか、野球大会に出るか」は、保護者が子どもと相談して決め、責任をとれば良いのだ。

私は小学六年生の夏休み直前、学校代表で夏の水泳大会の選手に選ばれた。しかし、その何ヶ月も前から、地域のボランティアキャンプに、小さい子たちをまとめるリーダーとして参加することを引き受けていた。学級担任の先生から「最後の水泳大会だし優勝の可能性が高いから出てほしい」と頼まれたが、水泳大会を断った。理由は、水泳の個人種目よりも、キャンプリーダーの役割の方が大事と思ったからだ。後になって担任の先生から「重吾は学校のことよりもキャンプを選んだ」と言われたが、自分の中では「個よりも公」を選んだと思っており、今でも後悔はない。

運動会に出るか野球大会に出るか。

この保護者は子どもに聞いて考えさせたのだろうか。

結論。自分で決めるべき事なのに「~してよいですか。」とか「~した方がいいですか」と言う大人が増えている。自分で決めるべき事の決断を「=~してよいですか」「~した方がいいですか」と甘えた言い判断を判断を人に委ねる大人が増えている気がしてならない。

自分のことは自分で決める。非難も誹りも責任も。すべて自分で負う覚悟を持った人を「大人」というのだ。

近頃、大人はめっきり減ってしまった。

(運動会を休んでいいですか 終わり)